
福島で暮らす、世界の方々から寄せられた福島へのメッセージをご紹介します。
「いつか世界中で困っている人を助けて、希望を届けられる人になりたい」
香港で生まれ育った私は、幼少期からこう夢見てきました。
成人して小学校の教諭となり、5年間従事しました。その後、夢を叶えるために世界各地ヘボランティア活動に行きました。特に、日本は何度も訪れています。中でも福島は私にとって大切な場所となリました。
東日本大震災により地震、津波、原発事故という3つの災害があった福島県は、完全に復興するまでに長い年月がかかるそうです。風評被害の影響は大きく、県外の方や外国人など、今まで多くの人が「FUKUSHIMA」を避けてきてしまいました。
ですが、私は本当の福島を知っています。1年以上住み、自分の目で見て学び、安全を確かめてきたからです。多くの人は「知らない」から恐れるのです。だからこそ私は、世界各地に福島の魅力を届けたいと思うようになりました。
今までたくさんの人や団体と繋がり、協力し合って福島を発信してきました。海外から友人を呼び、50人以上案内してきた実績もあります。県庁に声をかけていただき、香港でのPRイベントでは、福島での暮らしをお話させてもらいました。
私は長年ボランティアを継続してきた経験から、物資や資金を被災者へ差し出すだけでは足りないと実感しています。被災者と一緒に人生の目標を探し、心身ともに健康で暮らしていける寄り添ったサポートをすることが必要なのです。だからこそ、福島の人々にとって外国人と交流する時間が有意義なものになっていると感じています。自身の世界を広げるきっかけになりますし、災害から立ち上がった経験が今後の世界を支えるという意識が芽生えはじめているからです。
現在私は、一緒にボランティア活動をした主人と日本に移り住みました。子どもが生まれて、今は3人で穏やかに暮らしています。私が福島を応援することは、天からの使命です。これからも、何度でも福島を訪れ、励まし続けて行きたいと思っています。
私がいわき市をはじめて訪れたのは、2002年夏です。
美しいビーチと温かい町の人々に魅了され、すぐにこの町が大好きになりました。
東日本大震災は、ショックと共に私を悲しみで包みました。同時に、神様がこう囁きました。
「福島の人々にたくさん良くしてもらいました。今度はあなたが助ける番です」
いてもたってもいられず、震災から10日後にはボランティアヘ向かいました。訪れたのは久之浜町という海沿いの小さな町です。惨状を目の当たりにした時は言葉を失いまいましたが、瓦礫の撤去など自分にできることを少しづつ行いました。
ボランティアは一度だけの予定でしたが、気づけば何度も訪れていました。その間、「家族」と呼べる人たちまでできました。現在、震災から10年以上が経ち、久ノ浜の友人や家族は新しい家を建てたり、ビジネスをはじめたりしています。
震災の被害から立ち上がり、再生しようと奮闘する姿は私に勇気を与えてくれました。ここまでの復興は、再び町で安心して暮らせるように尽力してきた人たちの努力の賜物です。
これからも福島を応援し続けます。
私はいわき市に住んで25年以上になります。2011年、東日本大震災を経験しました。一時は大変でしたが、現在は多くの外国人も訪れています。私たちは、寿司やラーメン、そばなどおいしいご飯を問題なく食べることができます。いわき市の放射線量は世界から見ても低く、安全です。
幸せに暮らせることを神に感謝します。私は福島が大好きです。
私はウクライナの港町、オデーサで生まれました。
チェルノブイリ原子力発電所の事故が起きた時は17歳でした。その日のことは、今でもよく覚えています。
1986年4月26日、旧ソ連ウクライナ共和国チェルノブイリ原発の4号炉で特殊な実験を強行した結果、出力が急上昇して制御不能となり、爆発・火災が発生しました。大量の放射性物質は欧州全土に散らばり、救助作業員20万人、周辺地域住民数百万人が被ばくしました。
チェルノブイリは私が住む街から約600km離れています。爆発時の風向きが西に吹いたため、奇跡的に直接的な影響は受けずに済みました。ですが、現在でも30km圏内は立ち入りできません。
福島県でも2011年に悲劇が起きました。今でも住めない場所があることはとても悲しいですが、生命の営みは途切れません。チェルノブイリでも30年以上かけて森林が成長し、貴重な野生動物がいる森になりました。
今、私はいわき市に住んでいます。薄磯海岸近くにある「いわき震災伝承みらい館」には、何度も足を運びました。福島には希望を持って前を向いている人がたくさんいます。私はその姿を見ていつも励まされています。これから福島はどんどん再生していくでしょう。福島の復興を心から願っています。